なにか、いいこと Somethingood みとの日記

日々考えたことを綴っています。

老いた親を愛せますか? それでも介護はやってくる 岸見一郎

 図書館で借りました。

老いた親を愛せますか? それでも介護はやってくる

老いた親を愛せますか? それでも介護はやってくる

 

アドラー心理学で有名な岸見一郎さんの本です。

 

印象的だったところを少し引用すると、

 

生産性で人間の価値をはかるのは間違いだと思います。何かを達成できるということ、生産的であることだけが唯一の価値だと考えて生きてきた人が、年老いて何もできなくなった時、悲しくなって現実を観ないでおこうと決心することがあります。認知症心理的な背景がここにあります。

 認知症の親を援助するためには、子どものほうが生産性で親の価値を見ないようにし、何もしない親を受け入れることが必要です。たとえ何もできなくても、そのことで人の価値を評価するのではなく、人が人として「ある」ということに注目したいのです。

 

哲学者の鷲田清一が、われわれの社会が、何をするわけではないが、じっとそばにいるということの持つ力を評価することを忘れていると指摘しています(鷲田清一『噛み切れない想い』角川学芸出版)。これを読んで私もそのような力を認めていないことに気づきました。

(中略)

じっとそばにいるだけではだめだと思うのは、価値を生産性でしか測らない社会の問題でもあります。

 

私は、できれば専業主婦になりたいと思っており、

できなければ、家庭を優先できるてきとーな仕事を持ちたいと思っている人間です。

(今はその実験中)

それがなんでだろうと思ったところ、

自分の子どもに「いつでもお母さんがいる」という安心感を持ってもらいたい、ということではないかと思っています。

 

確かに、家にただいたって何も生み出さない。

けど、「怪我したらすぐに親に連絡がつく」とかって、安心にとって大事じゃないですか?

私は、子供の祖父母とは遠いところで暮らしているので、

「いざとなれば私が子供の第一責任者」という思いが強く、

それはもう強くて、

だから、自分の仕事なんてどうでもいいのさ、という考えに行き着いてしまうのです。

 

今、共働きがむしろ普通のことになっているけど、

子どもはそこで安心して暮らしているのかしら?とちょっと思います。

祖父母とか、身近にすぐに頼れる人がいる場合はいいと思うんですよ。

それがない場合、その「安心感」までもが用意されている社会では、まだない。

というか、そういう心配性な親のもとで暮せば、子どもは安心できないので(笑)、

そう思っちゃう・心配しちゃう親ならば、あんまり仕事しないほうがいいだろうなあと思っています。

 

私は生産性向上能力に自信がないので、そこだけじゃない価値を求めているというのも多分にあります。

これは逃げなのか?それとも、自分が勝てる、自分が発揮できる場所を求めてるということになるのか??

 

人生は続きます。